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No 7. September 1〜September 15, 2006
マーケットに野菜を売りに来る村の女性
手にしているのは、蓮の茎
マーケットの中の穀物屋さん。米、豆、小麦
などの他に乾物、調味料も売ります。
米などはすべて計り売り。
ラマダンを控え、値上がりを避けて早めに
買う人もいます。




街の宝石店。あちこちにあります。
多くの輝石はミャンマーから来ます。
 

 10回目の旅となるダッカは、着地と同時に、見慣れた光景と匂い、無事に到着したという安心感から始まっていく。行くたびに物々しくなる警戒態勢、強面に構えた税関たち、蚊が消えた、というのがここ数年の空港内の大きな変化だろうか。税関を出て、先ず行き当たる為替の窓口の呼び込み合戦は、銀行らしい威厳はいずこにや、夜店の呼び込みさながらだ。一つだった為替の窓口もいつしか増えて、この呼び込み合戦は、まさにバングラデシュへの第一歩を実感する瞬間である。

 バングラデシュの経済成長率はめざましいそうだ。街のあちこちで先進国並みの新しいビルの建設ラッシュが進行している。おしゃれなレストランも増え、もはや「中村焼鳥店」という漢字の入った車を見かけることもまれになった。街のあちこちで道路工事が進んでいる。機械は多くはないけれど、大勢の男たちがじりじりと照りつける太陽の中で汗を肌に光らせて働いている。私が歩いた街に限定すると、毎朝人がかいがいしく清掃をしていて、小奇麗になっている。自転車の数も少しずつ増えている。奥さん(だと思う)を荷台に乗せて朝の通勤時間の小道を自転車で風を切って商業区域に向かう男性を初めて見かけて、思わず振り返ってしまった。自動車も増えている。連れ立って歩く恋人たちも多くはないが目にするようになり、確実に変化が進行しているようだ。ハク家のお隣の家主が亡くなり、新しい主は広大な庭に柵を施して、鹿や孔雀を飼い始めた。世話をする男たちが何人か雇われている。ハク夫人が、「あの男は信用できる人です。だれも見ていないのに、真面目に餌を作り、動物に与えています」と居間の窓から見おろしながら言っていた。

 ダッカの舞台には今やスポーツクラブも登場した。ハク夫人も会員になり、水中歩行運動をしてくるそうだ。プールは(多分ヨガなどの場所も)男性用、女性用が別になっているということだ。面と向かって訊けなかったけれど、イスラムの女性たちはどうやってプールで歩いたり、泳いだりするのだろうか。その間、彼らの運転手たちはじっと外で待っているのだ。これはゆっくりできる嬉しい時間なのか、退屈な待ち時間なのか、好奇心はそそられるが、なぜか訊きたい気持ちを押さえ込んでしまう。

 ラマダンを控えた街のあちこちで、村に向かうバザールで、村の道で、引かれていく牛たちがいやでも目に入ってきた。牛たちはほふられるのだろうか。ラマダン前の金曜日、8日はハク家でも大忙しだった。数日前から大鍋で煮込んで準備を始めた甘い練り物4種をパンの袋の中に詰めて、隣近所、親戚、貧しい人たち100人くらいに配るそうだ。家中総出の作業に加え、配るためのおじいさんがどこからともなくやってきて手伝っていた。隣近所からも同じ甘い物が届けられ、墓参りの帰りに親戚が立ち寄っては縁を確かにしていた。翌土曜日は、夜を撤してのお祈りもするのだという。わからないまま聞いていたら、夜になって家事の手伝いをする2人の少年はモスクに行ったという。料理係の女性が、少し寝ては起き出して台所を中心に歩きながら神の御名を唱えては、お祈りをささげていた。そのようにして皆、祈り明かすのだそうだ。後で聞いたら、手伝いの少年の一人と料理係の女性は、その後2日間の断食に入ったそうで、しぼんだ顔をしていた。
 新聞によると、男たちがそのようにして神の御前に罪を悔い、先祖の霊に祈りをささげる墓地では、お薦さんたちが幾重にも列をなし、悔い改めてさらに善となった男たちの情けにすがろうと結集するということだ。アラーの神が、この夜にその年の収入、財産、富を決定なさるという信仰があり、彼らも必死にならざるをえない。かくしてダッカの渋滞をさらに混迷に導く物乞い人の群れは、ついに警察の出番とあいなった。一方、金曜日の聖日、土曜日の祈りの祝日、日曜日のストライキ休暇と3連休を当て込んでのダッカ脱出旅の人たちも相当数いたようである。

 ハク夫人はラマダンに100人の女性たちにサリーを贈るそうだ。彼女は貧しい人たちと言っていたが、親戚の女性たちに贈るサリーも準備をしていた。そして、なんと、今年はナラヤンプール村に2台、中古のリクシャを買ってあげるそうだ。二人の男がそれで稼ぎ、収入をえながら、リクシャの代金を払うようにすると目を輝かせて言っていた。こんなにいいことを重ねたら、彼女の人生は神の恵みに溢れ、ばら色に輝くに違いない。

 ダッカの高い経済成長率の中で、停電は悪化する一方である。一番大きな被害に見舞われているのは外貨獲得の約80%をになう衣料産業である。10時間の労働時間は5時間くらいになり、いざ電気がきても、待ちあぐねた労働者たちはどこかに行ってしまい、仕事にならない。国際競争力がおちるばかりか、労働者のいらだちが爆発してストライキや暴動が絶え間なくおきている。驚いたことに生産に必要な車や設備にも火をつける。ライバル国のだれかが煽動しているのではないか、という疑いさえも出ている。自家発電を持たない一般の人たちは、冷蔵庫が冷蔵庫として用をなさない、インターネット・カフェでは、接続が途切れた客が支払いに文句をつける、朝の忙しい時間帯に1時間毎に停電になる等、不都合は列挙しきれない。原油高で石油燃料を敬遠し、プロパンガスで走行する車は所かまわず、突然ガス欠となり、スタンドで補給しようとするとそこには長蛇の列が待っている。そして順番がまわるまでには、3回か4回、停電をやりすごすはめになる。かくして、私たちのナラヤンプール村からの帰路は散々の結果になった。田舎道でガス欠。運転手がどこからかオイルを手配してきて、なんとかダッカに入ったものの、またストップ。また応急措置。そしてやっと行き着いた給油スタンドでは動かない車の列だ。しかもレンタル料金は半年毎の訪ダッカのたびに、上がり続けている。前金でガソリンの料金を払っているのに、このざまはなんだ、とハク夫人が動かない車内で、バスの運転手を叱りつけ、携帯電話でそのバスを手配したお抱えの運転手を叱りつけ、運転手の携帯電話でバス会社の人を叱りつけ、たっぷり3時間をユウイギにどなって、やっとガスの補給ができ、どこもかしこも家路へ急ぐ車で隙間無く埋め尽くされた高速道路をどうにか前進して、真夜中近くに、なんとか家にたどりつくことができた。人生はとどのつまりはなんとかなるものだ。その結果支障や不都合に対していかなる割引もなく、まともに請求されるレンタルバス料金を私がおとなしく支払ってナラヤンプール村への旅はブジに完了した。ハク夫人がスチームをあげながら言った。「このような状況では私たちはもう村へは行けません。ホッサンをダッカにこさせましょう」ホッサンさんは乗り合いバスを乗り継いで来るそうだ。

 
 レインツリーの道の向こうに白い建物が現われると同時に、いつものように子どもたちが走り出してくる。田んぼがどこまでも広がっているので、お伽の国で小人たちが動いているようだ。そして歌声が聞こえてくる。♪アマル、ショナル、ベンガリ……♪ノーベル賞受賞者、タゴールの詩による国歌である。この瞬間が好きだなあ。このコンサートを多くの人に見ていただきたくて、ついにビデオカメラを買いました。
グラウンドに植えたマンゴー、グァバ、レイチなどが順調に生育していた。木陰を成すにはまだ及ばないけれど、「早く、大きくなーれ!」と願ってしまった。ダッカの金持ちたちは、6月になるとフルーツ・パーティをするそうだ。ナラヤンプール村の子どもたちも、あと何年かしたらフルーツの収穫を楽しみ、木陰で本も読める環境ができるだろうか。この子どもたちの、次の、次の世代くらいに…… 10年くらい後だから私は空のかなたから見ることになるかもしれない。  
 途中の道やバザールで稲の苗が束ねて売られていた。田植えの時期のようである。日本の稲の苗よりも青々として、長く強そうに見える。日本の子とナラヤンプール村の子どもの違い、と例えてもいいかもしれない。  

 二つ、嬉しいニュースがある。ひとつは何年かの継続の過程で、ナラヤンプール村の小学校が地域のメイモン校として評判を確立するまでになったという事実だ。日本から資金が入り、私的に数学、英語の教師も雇用され、音楽教育もある。そしてそこから必ず、マークシート方式で政府の奨学金で進学する子どもが選ばれているという現実から、その地域の親は子どもをこの学校に送りたがっているということだ。空席がないので、断わらざるをえない、ということだが、関係者としてはちょっと自慢したくなる。ほんとは、大いに。でも自慢は見苦しいからちょっとに留めよう。そんなことをあれこれ考えながら、子どもたちの演奏や、歌を聴き、踊りを見ていたら、皆にケーキを配る頃になって、音楽の教師が、「給料を値上げしてほしい」と持ち出した。「責任者のホッサンさんと相談をしてから決定します」
 昼食のテーブルで、ハク夫人、ホッサンさんと話しあったが、彼らは値上げに心から賛成で、しきりに「音楽の教師は貧しい人だが、熱心だ」と繰り返している。私は、「現地の値段で雇います。彼の給料は安いですか、普通ですか?」と間をおいてみたけれど、地域の相場を、私は知りうる術もなく、値上げをしてあげたいという2人の応援説得により、結局、少し値上げすることになった。衣料産業業界では、給料値上げ要求、残業分を払え、と悪戦苦闘のストを繰り広げてそれでも棚上げになっているのに、ここでは値上げ交渉が交渉前に決着する。「日本人だと思って簡単にお金を出させようと思わないでください。地元の賃金相場に従います」と釘をさしたが、この一言は後で図らずも大きな効き目となった。ホッサンさんは、食べ物の料金を数字どおり正確に受け取り、おつりまでくれた。ハク夫人は帰路のバスの予定外出費を自分のお財布からだした。もっともこの件では、バス会社と交渉続行である。誤解のないように付け加えるが、ホッサンさんも、ハク夫人もこのプロジェクトを通してお金を受け取ってはいない。良いことをすることで、心の満足を得ているのだ。ホッサンさんは他でも中学校の建設に関っていて、皆が自分を信頼してくれる、と胸を張っていた。
 二つ目の嬉しいニュースは、サクラ・モヒラが販売会でお借りする与野西口駅前・「SHINE」のギャラリー部門の責任者で画家の渡辺隆夫先生が、子どもたちの絵を展示する機会を与えてくださったことだ。紙やクレヨンなども頂戴し、学校側も浮き立っていた。ただ、良い絵とは、しっかりと形にはまった絵という観念があるので、日本側の意図とはギャップが生じるかもしれない(展示会:来年2月、北浦和の近代美術館)。まずは成り行きを見守ることにしよう。
悪いニュースは、ハク氏が始めて村に同行しなかったことだ。体調があまりよくないようだ。夜、ダッカの彼に音楽講師の給料の値上げの件を報告すると、「そんなやつは首にしろ!」と病気とは思えない力強さでどなっていた。そうは言っても、彼は今やどのくらいリーダーとして責任を持ってくれるのだろうか。結局はどなるだけで終わりになった。決定するのも、支払いをするのも私だ。

 小学校1学年から5学年までの成績上位者、3人ずつ、合計15人に奨励金を出し、ナラヤンプール村で一人、大学生のための奨学金をだせることになった。ハク夫妻が喜んで、手放しでこのニュースをダッカの友人、親戚間の話題にしている。選考はこれから。村からもダッカ大学、医学学校に進学する優秀な若者がいるが、惜しむらくは、ダッカで高等教育を終えても、村には帰らない。

 今回はパウンドケーキを駕籠に山盛りに準備してあった。半分に切って、それを4〜5切れに切ってもらっていた。ショミティの女性たちにもそれぞれに1個ゆきわたり、女性たちが歯のない顔をにこにこさせて、ケーキをしっかり抱えながら、挨拶にきた。こんなにたくさんのケーキを、一体、田園一色の村の環境のどこから調達したのだろうか。もはや行事になった食べ物のおみやげが、本に変わる日を祈ることにしよう。9月10日の新聞によると2食しか食べられない人は村の3割くらいに減ったそうだ。

 

 サクラ・モヒラ・ショミティの女性たちは、リーダーの下に着実に生活を築いている。鶏、牛、山羊を買い、飼育してなんとか生活を切り盛りしているようである。「息子の一人は精神病、もう一人は刑務所。孫たちを抱えてどうしたらよいかわからない」と言って嘆いていたおばあさんも、私にはもとよりハク夫人にも物乞いをしなくなった。3%の利息でショミティから資金が借りられるので、無理をすることなく返済できる。ショミティの資金は初めの2倍以上に増えている。そしてショミティの女性たちの顔は労働着の泥付きサリーの中で、誇張ではなく、晴れ晴れとしている。

 裁縫教室のミシンが一台故障して、経験のない人ばかりの集団でどうしてよいかわからず修理を頼んだが、修理費は裁縫教室の授業料の積み立てでまかなったそうだ。第1回目の生徒さんの半数10人は卒業し、新たに10人が加わった。その人たちの顔ぶれを見ると、言うなれば、中学校を卒業したような若い人たちだ。彼女たちがここでの訓練を基に、就職や起業につながれば、願ってもないことである。裁縫教室の先生も今回はゆとりがでたのか、テイラーの息子も呼びよせることなく、体当たりの態勢だった。

 彼女たちに託した仕立物は、10月半ばくらいに到着する予定である。今回はサリーの大小の袋に加えて、トートバッグ、ふろしき、テーブルランナー、巾着などができてくる。シルクオーガンジーの風呂敷もある。彼女たちが見たこともない物を作るので、まだ数は限定。できてきたら、ホームページで紹介します。
 これらの製品の縫い方を説明するのに、たっぷり3時間が必要だった。縫い方といっても、村には電気がないのでアイロンも使えず、裁断テーブルも大きなものではなく、ものさしで計る習慣もない人たちが作業するにはどうしたらよいか考えて、私たちがダッカで下準備をして、彼女たちが間違えないように考えて、持っていったものである。ただ、その分、生地にはこだわってデザインしたものである。
 それでも材料をサンプルとともに積み上げられると、リーダーさんも裁縫の先生も自信がなくなったらしく、縫い上げるのに「3ヶ月」かかると言う。「フザケルンジャアリマセン!日本人なら5時間あればできる仕事です。賃金はまともに出ているのですから、せめて1ヶ月で仕上げなさい!」ラマダンが9月24日から始まるので、彼女たちは忙しいそうである。でも、私がバン!とテーブルを叩いて、1ヶ月で仕上げることに決まった。
 製品は残り布で作った紐できちんと束ねられ、ホッサンさんがバスを乗り継いで、ダッカに運ぶことだろう。ハク家に仕立て屋さんが呼ばれ木綿で梱包されて、そこから国際スピード郵便で日本に向かうわけだが、もしかしたらその期間がさらに1ヶ月かかるかもしれない。
 こちらから送った国際スピード便の荷物が1ヶ月を過ぎても届いていないので、中央郵便局へ取りに出かけることになった。結局は、集配の地域の郵便局へたらいまわしされたのだが、どちらの郵便局も、「効率の悪さもここまで極めれば、不満を超越できる」というくらいに歴史的環境が保存され、感動を禁じえなかった。すべて手書きで、スピード便のやり取りを記録してあったが、それらは何もかもどこかに山積みになっていた。薄暗い仕事場は、停電でさらに暗くなり、空気もよどんで、人がひしめく中にさまざまな匂いが充満していた。あちこちでまわらぬ扇風機だけがやたらに目だっているのみだ。やっと出てきた当の荷物は、ナントカ税をたっぷり徴収されて、係員が明治時代に作成されたような煮しまったよれよれの手書きの受領書を出してくれた。これにも感動することにしよう。ところで、郵便当局は、遅配や紛失に対する責任料というようなものを利用者に払いたい、と思っているのではないだろうか。手紙は3通に1通が配達、3日で着くと保証されたスピード便は1週間で着けば奇跡的。良心に鑑みてこのままでいいとは努々考えてはおいでにならないだろう。そして、このような過程を経て、サクラ・モヒラの製品も運ばれる。スピードが売り物の現代に、なんというスローな物語を提供してくれることだろう。佐川急便の人が、「そんな話、羨ましいなあ」と心から感嘆していた。

感動といえば、中央郵便局の玄関まわりのあちこちで、代筆屋さんが、中年婦人のために、英語の宛名書きをしていた光景もそのひとつだ。出稼ぎの息子に宛てる手紙だろうか。いくらで頼むのだろうか。カメラを向けてはいけない、と咄嗟に思ってしまった。サクラ・モヒラの女性たちに「あなたはどのような生活をしているのか」と訊ねないのと同じ理由からだ。

 

 第6回の展示・販売会から現地の福祉トラスト、クムディニという組織に刺繍などの手仕事の入った製品を引き続き注文してきました。手始めの夏のブラウスは好評だったので、数を3種類に増やし、それとともにノクシのブラウス、小物を注文してあります。手仕事は身障者や最貧層の女性たちに加え、伝統的な職人さんも加わって、生産ラインを固めています。
 9月24日から幕開けとなるラマダンに絡む行事が目白押しで、製品の到着は少々遅くなりますが、追々、非効率を極めた、国際スピード便でとにかく届いてくれることを、願ってやみません。こちらの生産に絡んで、関係者と材料、色などを検討しながら、それぞれの責任者がきちんと話を聞いてくれ、ここはバングラデシュというより、国際的な仕事の基準で稼動している組織でした。しかも、日本向けの製品に対して興味を持って受け入れてくれています。
 もうひとつの生産場所はムニールさんの経営する、「TOPS」というテイラーにお願いしました。15人くらいの縫製職人を抱えています。日本用の婦人向けには少々トレイニングが必要でしたが、経営者はムニールさん、マネージャーのファルックさん、マスターと呼ばれる縫製職人の指導をする「マスター」が責任を持って経営にあたっています。ラマダンの後に続く「イード」というおめでたい行事を控え、テイラーたちは今が一番忙しい時だそうです。先回のダッカ訪問の時から少しずつお願いしていたのですが、今回から初めて本格的にサクラ・モヒラの製品の個人用のオーダーの仕事に取り組んでいただくことになりました。工場はダッカの店からリクシャで30分くらいのところにあります。大きな食品のマーケットを通り抜けて、狭い路地を通り抜け、アラビアンナイトに出てくるような風景の中で、さびた鉄門を入って行きます。ファルックさんに工場に連れていってもらった時にはカメラを持っておらず、写真はありません。次の号でご紹介したいと思います。
デザイン担当の小木節子が仕事場の光景に心を揺り動かされたようでした。もちろん、(私たちにとって)歴史的背景の中で、歴史的ミシンを踏んで、若い縫製者たちが働いていました。人が一心不乱に働く姿は、時や場所に関係なく、心を動かすものだと思いました。二人してこの小汚い(すみません)場所が、気に入っています。

 
 ナラヤンプール小学校の子どもたちにと、絵の具やクレヨンを頂戴した話は紹介しました。ハク夫人曰く、「絵の具の使い方は村の子どもたちはしりません。絵も描けないから、手形をおさせようと思います。シュプティさんのお母さんの学校に絵の具はあげましょう。」彼女は村の子はなにもできない、となぜかいつも決め付けている。村の女性たちはまともなことはできない、と決めている。村の女性たちはきちんとした仕事をする。だから、それ以上のことを私が試みようとすると、「彼女たちにはできません」という答えだ。
できるかもしれない。初めの1歩を手助けしてもらえば…。

シュプティさんのお母さんを紹介しよう。
 シュプティさんとはハク氏のお向かいに住む実業家の才女で、お母様はご主人亡き後、彼の名前をつけた学校を創立して、17年間、ダッカのストリート・チルドレンを集め授業料なしで教育を与えている。約1年前にダッカの郊外に校舎を建て、今や1000人の生徒と19人の教師を抱え、カリキュラムにはビジネスコースも設けて就職の助けにしている。バングラデシュの学校は家庭教師をつけないと上級学校の試験には受からないというのが定説のようであるが、この学校からは家庭教師なしで試験に受かる生徒が大勢いるということだ。それもそのはず、公立学校の教師は生活の足しにと、家庭教師のアルバイトをするために、意図して教えないのだそうだが、シュプティさんの学校では生徒たちが自立できるように教育しているからだ。夕方は成人学校にして、女性たちに料理や裁縫、編み物を教えているそうだ。そのすばらしい教育内容のために、ある企業からファンドを取り付けたようである。
 そのお母様は76歳の現在、かくしゃくとしてまだ現役でクラスも担当されている。お会いしたら、華美ではないが立派な方で、クムディニの奥様と同じ印象を受けた。

 初めて訪れた学校は、無料の個人学校とは信じられないくらい充実していた。ナラヤンプール村の小学校にからんで、ナンダカンダと並べていた文句が全部引っ込んでしまった。
私もまだ、まだがんばるぞ!と気合を入れてみるけれど、ずっと長く面倒みていくんだ、仕事も与えていくんだ、と一生懸命自分に言い聞かせて、自信のない自分をごまかしているのが正直なところだ。だが、サクラ・モヒラ・トレイディングが4年目の活動を続行している事実を振り返ると、神のご加護が働いているのかもしれない。せめて1週間くらいは断食をして、御心に応えるべきかもしれない。


シュプティさんとお母様、学校の前で

絵を描く子どもたち
 

変わらぬご協力、ありがとうございます。ナラヤンプール村の進展が嬉しいニュースとなってお届けできることにほっとしています。

第7回目の展示会は来年1月の4週目を予定しています。お蔭様で、サクラ・モヒラの製品を扱ってくださる場所が出てきました。美しいオリジナルの小物も揃いましたので、委託販売先、資金作りのバザーなど、ご紹介していただけるとありがたく思います。

 
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