Sakura Mohilaとは?商品紹介展示販売会業務日誌お問い合わせ
Sakura Mohilaとは?
  歴史
  村の小学校
ショミティの女性達
  生産する人達
サクラモヒラ通信
 
-日本語-
 No 9
 No 8
 No 7
 No 6
 No 5
 No 4
 No 3
 No 2
-English-
 No 2
 No 1
   
 
No 14. October 26 〜 November 1, December 8 〜 December 16, 2009,
February 20 〜 March 4, 2010
バングラデシュの地方の風景 : 右端はムガール王朝寺院の廃墟
バングラデシュの建物 : 左からホテル、スターモスク、ムガール王朝の要塞
 

 久々のレポートとなった。#13の発行が2009年の5月だからほぼ10ヶ月ぶりである。その間3回もバングラデシュを訪問していたのだから、ちょっと怠けた、と言えるかもしれない。昨年の10月はH.I.Sの旅行会社に協力をいただいて、サクラ・モヒラのエコツアーを実現し、12月はふとしたきっかけから、ダッカの中心地ランプラという家内工業地のような場所に工房を立ち上げることになった。その時にはバングラデシュにいながら、ナラヤンプール村の訪問ができなかった。過去に、大雨で村の道が遮断され、村に行けなかった時をふと思い出した。だが新しいプロジェクトに追われて、村に行く時間を取るのもむずかしかった、というのが正直なところだ。新しいスタッフのトレイニングに時間が必要だったのだ。
 バングラデシュは、経済バブルの時にあるようだ。預金の金利が17%で、金利だけで暮らせる資産家もいることだろう。ケンタッキーフライドチキンのレストランは常に列をなしていて、その価格たるやアメリカと同じだということだ。1000タカ、2000タカというバングラデシュのお金を一回の外食に支払う。これは、住み込みでほぼ一日中働く10歳前後の子どもの一ヶ月の給料より高い。サクラ・モヒラの工房の縫い子さんたちは、爪に火を点すように生活しているから、ある家の一部屋だけを家族用に借り、幼子を残して働いている。交通費さえも節約している。ほぼご飯だけ、というアルミの段重ねのお弁当を持ってくる。バングラデシュのさまざまな階層の人たちと知り合いになり気が付いたことだが、上層部の人たちは、ゆとりがあるから、親戚や友人が常に集まってご馳走をしあう。他人はともかく、親戚はとても大切にしている。他人に借りたお金は知らん顔してとぼけるが、親戚に頼んで買ってもらった物は、相手があげると言っているのに、なにがなんでも返している。ビジネスに従事する階層の人はよく働く。特に日本に住んだ経験のある人は効率よく働いて、上層部の人たちのパーティだけのお付き合いはあまり好まない。ただし、実のあるつきあいは、心よくしている。経済的にゆとりのない層は、信じられないくらい精一杯のもてなしをしてくれて、招待を受ける側は笑っていながら、涙が出そうになる。
 ダッカでは、ほんの数年の間に開店した店が改装したり、主が入れ替わったりして、経済が活発に動いている印象を受ける。おしゃれな店が次々にオープンして、もはやお酒を飲んで、ポップな歌を聴くパブのようなお店さえも開店しているようである。トヨタの中古車(と言っても製造4年以内)が道路の隙間を塞ぎ、ダッカに限っては目的地に着く時間は予測ができなくなった。
 12月に初めて訪れることになった家内工業地域の、工房の前の路地で、我がサクラ・モヒラのスーパーバイザーがつぶやいた。「エドの祭りで、この場所で牛を10頭殺傷したから、蝿が多いねえ。もっと水を流すように言わなくちゃ」金銭のゆとりに応じて牛を買い、たくましい肉屋がナイフを諸手にかまえて、路上で神の捧げ物とするべく牛をばったばったとほふり、貧しい人に分け与える行事をする祭りである。関係ないけど、水流し係りはいつも暇そうにぼんやりとした目をして、ただ存在している。あたりはごみが散らかっているのだから、お掃除くらいしてもよいのではないだろうか。
 サクラ・モヒラに新しく加わったプログラムは、ダッカ大学近くにある「新幹線日本語学校」の応援、当組織にゆかりのある場所を訪問する旅行、そして縫製の工房の運営である。11年目に入り、両国の間で何ができるか、を次の目標にしたいと想う。

 
校庭にて:日本からのゲストを向かえて                「私の絵を見て!!」

 日本人なら誰しも心の故里を感じてまた来たい、と思うことだろう。それがナラヤンプール村の学校である。言葉と写真のみで伝えていた村に、10月と2月それぞれに生身の日本の方々が来て下さって、村人のみならず私もほんとに嬉しかった。これらの訪問者に、村の学校や村人が与えたことはなんだろうか。与えられるだけの存在だった村の人たちが、訪問者の心に何かを与えたことは間違いのない事実である。私はそのことを自慢したいのだ。「あなたたちが与えられる大きなものがあるよ!」だが村の人たちはそんなことは想像さえしていない。100%の本心をさらすだけだ。日本の旅行会社を介して、ベンガルツアーという現地の旅行会社とも縁ができ、10月、2月とガイドで多いにお世話になった。
 ナラヤンプール村の学校も10年を経過した今は、「私の村の学校」「私の村の子どもたち」と私がいとも自然に言ってしまうものだから、あちこちで怪訝な表情をされる。「バングラデシュ人なのですか?」その10年間、飽くことなく心待ちにしている瞬間。レインツリーの向こうに見えてくる白い建物。小さなグラウンドに並ぶ力のある目と小さな身体の人たち。泥で染めたような薄汚れたブルーの制服。裸足の足。空に向かって歌う声。行くたびに伸びている校庭のマンゴウ、ライチの枝。ハーモニアムの歴史的な音色。そよ風に揺れるレインツリーの枝とうす緑の葉。これらの物が一瞬を構成して、村の訪問を実感させてくれる時だ。なんて贅沢な時だろうか。
 よく見ると、校舎の壁は薄汚れて灰色だ。「ペンキを塗り替えなければなりません、マダム」、という言葉は、だれも言いませんように。すくなくともあと2年は、と密かに祈る。
 日本のお客様用に子どもたちが少しずつお金をだして、お土産を準備してくれた。やや複雑な気持ちだが、嬉しくいただくことにした。せっかく準備してくれたお土産を、「あなたたちはお金がなくて、私たちが支援しているのだから」と正義に満ちたことを言って断わったら、皆、どんなにがっかりするだろうか。こんな時には、そのお土産代をどこかで穴埋めしてあげてでも、喜びを分かちあったほうが幸せにちがいない。考えてみたら、私が村から贈り物をもらうのは初めてかもしれない。小さな贈り物を人数分準備するまでに、皆でどんな話のやり取りをしたのだろうか。
 現在、6人の小学生に奨学金を出している。村の世話係アンワー・ホッサンが試行錯誤を繰り返し、6人まとめて家庭教師をつけ、お金は親には渡さない、という形に落ち着いた。初めは貧しい家庭にお金を渡し、学校に通わせるという条件をつけたがうまくいかなかったようだ。新聞を読む限り、経済的に成長したバングラデシュでは親は子どもに教育をつけようとしている、という発展があるようだ。だが、一年に何度か訪れる村の学校で同じ顔を見るのは10人以下だし、都会の家に住み込んで働く子が、9歳だの10歳だのと言う事実を目の当たりにして、果たしてこの新聞の記事はどこまで信じられるのだろうか、と疑ってしまうのだ。
 習慣のようにお土産にしていたビスケットは10月にはお客様たちからのお土産ということで渡したが、2月はなしにした。10年目の区切りとして、またバングラデシュの経済的成長を鑑みて、そろそろ本をそろえる頃ではないかと考えたのだ。2月のお客様たちがお土産にとくださったお金で、最年長の奨学生、モニールにダッカ大学の近くにある古本のマーケットからおもしろい本を中心に揃えてもらうことにした。古本なら立派な鍵のかかる本箱に入れられて飾り物になることもないだろうか。テレビもコンピューターもない村で子どもたちが文字を楽しむことができるだろうか。モニールがこのような作業を通して、後に続く子どもたちとつながりができるのは喜ばしいことだ。さまざまな願いをこめて託してきた本選びだが、ビスケットを皆でもらう時のいつもの華やいだ時がなくて、ちょっと寂しかった。勝手だけれど、本は自分が整えるにしてもお客様のお土産は、やはり食べ物がいいなあ!「みんなが喜んでいる」。このような素朴な連帯感があってもよいではないか。立派な日本の人たちに叱られるだろうか。「日本人はお人よしとばかにされている」と。

 
日本からの訪問者と。若い人たちは仕事場の前の縫製チーム。 リーダーさんの家の前に集まる互助会の女性たち。

 縫製チームは何をやっているのだろうか。実は、学ぶ事に関しては世界に誇れる。そのスローぶりを。こんなになんでもないことを、こんなに習得しない人たちが現実にいるのだろうか、とその超現実に感心してしまうのだ。「もっと仕事をあげたくても、仕事の質が悪い上に、ダッカの上級の手仕事よりも高いから仕事を増やせない」と言うと、リーダーさんの答えはこうだ。「ダッカには優れた人がいるがここにはいない。ダッカと比較するのは間違っている」。縫製チームよ、村の女性たちよ。かくもすばらしきリーダーに恵まれたことに感謝してください。というわけで、今回も彼女たちが6年かけて自信を持って作ることができるようになった、タンガイル織の袋の大小のみである。お蔭様で、布の良さから、このタンガイル織の袋は日本で好評である。問題は、前述のとおり、いつまでも生活の足しになるほどは稼げないという現状なのだ。
 だが次の現状はもっと漫画的だ。こちらが用意した準備金を利用して生活のために使ったとしよう。利用料は3%。参考のために引用すると、バングラデシュの英雄ムハメド・ユナス氏のグラミン銀行を利用すると利用料は15%である。あなたならどちらを選びますか?さて数年間の彼女たちの利用料は、リーダーさんの給料を6年間くらい支払えるくらいに積みあがった。喜んだのはこの私。「利子からリーダーさんの給料を支払ってください」怒ったのは女性たち。「これは私たちのお金である。私たちは貧乏だからリーダーさんの給料は払いたくない」エッ?!約半年間というもの、簡単に言えばこの言葉のやり取りであった。2月の訪問の時にはリーダーさん自らが、「半年分の給料はいりませんから」というありさまである。それではその後は、また私が延々とお金を出すということ?いったいいつまで?そして私の準備金を皆で分けるまでその主張をとおすつもり?
 私はダッカに住むアンワー・ホッサンのエリートの弟にメールを送った。都合の悪い話は返事がきたことがないから、彼と、モニールにも同時にメールを送り、メールを読みました、という返事がコンピューターから来るようにして送った。「サービスの一切を止めてください。女性たちの積立金はすべて返し、リーダーさんの給料は利子の分から払ってください。残りは次の訪問の時に返してください。世界のどこでもこんな恥知らずな話は聞いたことがありません」数日してエリートの弟から返事が届いた。「兄にかいつまんで話しました。すべてはあなたの望みどおりにします」望みどおりとはどういうことを言うのか?私は、互助会の女性たちが、自分たちの利用料からリーダーさんの給料を払い、独立してプライドを持ってくれることが望みであった。
 バングラデシュのエリートは、すばらしい。お金を出させる時にはにこやかな顔と闊達な口をだすが、ひとたびいざこざが起きると、病気になってしまい、現場にはかかわれなくなってしまう。都合のいい時にはぱっと治るから、アラーの神の信者を羨みたくなるほどだ。だが、屈するものか。ガンガン、こちらの言いたいことを言うからね!
 今頃村では、「あの日本人、うるさくて仕方がない。帰ってくれてほっとした。日本の基準を振り回されてもかなわないよねえ」と皆で疲れた顔をして言っているかもしれない。
 私の願いは、村の人たちと日本の人たちが対等に交流することだ。支援してもらっているからと、貧乏根性に陥り、お金の基準しか持ち合わせないような言動は絶対止めてもらいたい!!日本の人にだって必要ならば言うだろう。「村の人たちは乞食ではありません!」ふと見たテレビでこんな言葉を伝えていた。「鬼手仏心」光明皇后が自らに言い聞かせて貧者に救いの手を差し伸べられたお言葉だという。良いことをするためには、鬼の手が必要だということだそうである。妙に心に焼き付いてしまった。


工房でのトレイニング

出来上がり!

 生産は実はもっとも期待と問題を抱えた部門である。村の資金を創る部門でありながら、実際には湯水のごとく、お金が流れてしまう部門でもあった。テイラーに、3年つきっきりでトレイニングしたあげくに、お金を私用に使われてしまったり、大企業であっても、右と左の長さが違うブラウスが大量に届いたり…。サクラ・モヒラの定番でもあったシルクのジャケットが10年経っても満足にできない時、「もうあきらめよう」という言葉がデザイナーから漏れでた。反論する力もなく肯定してしまった。バングラデシュ人の「オーケイ」は、驚異に値するほどの無責任さで進行する。ただ1人革やのイスラムさんは誠実に対してくださった。そのイスラムさんが池袋のサンシャインの革国際見本市に出展していたおり、私は乞われるままに手伝いに出たのだが、在住25年のバングラデシュ人が見本市の客として現れた。彼は、「バングラデシュ人は恐い。絹を注文すると石を送ってくる」と冗談とも本気ともつかない調子でポロリと言ったのだ。その一言が決め手となり、彼を信じた。体験してないと言えないコメントだからだ。私たちと同じ経験をしているに違いない。果たして、直観はあたり、ダッカのランプラという場所に小さな工房が出現することになった。実は彼の家を仕事場として提供してもらい、彼が監督をしてくれることになった。そのような小さな船出である。しかしながら、日本に25年滞在してビジネスを興した人だけに、こちらがもたもたしている間に、仕事場をセットし、ミシンを買い入れ、人を6人瞬く間に集め、実際に稼働させていた。こちらが12月にダッカに着いた時には、トレイニングをするばかりに準備されていたのだ。トレイニングは必要であったものの、何が必要かというポイントを明確にし、まずはお金を出せ、とも言わずに必要なことを勧めてくれるので、10年の後にやってきたこの時が神様からのプレゼントのように思われた。急なバングラデシュ行きで、1週間しか時間がとれないまま帰国したが、日本からサンプルを送ると、そのサンプルを見ながら皆で研究してくれる。きちんと測る、パターンに忠実に作る、アイロンの手をはぶかないなど、バングラデシュにない習慣をくどいくらいに繰り返し、2月に行った時には、その結実に驚きであった。過去の体験から、日本人がついていない作業なので、どうせとんでもない製品ができているだろう、と期待のかけらも持っていなかったのだ。ところがその予測ははずれ、縫い子さんたちは良い品物を作るという喜びを感じ始めていたのだ。そのような空気が溢れ、トレイニングが喜びと化したデザイナーは彼女のこれまでの言葉を裏切ってこうつぶやいたのだ。「しばらくいけないようなら、私一人でも行った方がきちんと仕事ができていく。」びっくりしたなあ、もう!彼女は外国語の人でもなく、バングラデシュに乗りこんでがんばるぞ!という人でもない。ひたすら服を作ることに喜びを見出しているというのが大原則の人だ。
 ランプラという場所はダッカの下町ともいうべき環境の中にある。工房にいて、糸や便せん、ペンが足りなくなると、家の他の部屋から持ってくるというような時間で近隣から調達できる。印刷がしたい、ゴム版を作りたい、刺繍がしたい、ブロックプリントをほどこしたい、と思えば、近隣どころか同じビルの住人たちがそのような仕事に携わる人たちである。3階の工房から見下ろすスラムのようにひろがった場所は、青いビニールの屋根を張っただけのテントのような家々である。ほとりにある沼というのか水辺はごみ捨て場と化し、悪臭がのぼってくる。夕方ともなると、蚊がぶんぶんと血を吸いに集まってくる。そのような水辺の魚を釣って食べるのだそうだ。大通りに出ると、車が道路を埋めて速度をあげている。リクシャもグリーンのモーターサイクルも目いっぱいのスピードで走っている。ほこりだけがもうもうと渦巻いて、あたかも砂漠の街を旅しているようだ。
 縫い子さんたちは、この道を通勤する。ある者は徒歩で、ある者はバスで、リクシャで。そして時に大盤振る舞いをしてモーターサイクルで。何かがあると頼みのバスもなく、片道1時間の徒歩通勤もありである。ある人は小さな子を一人家に残して、ある者は同居の母親にあずけて。残りの二人は年齢に関係なく独身者だ。そして気がついたことだが、アザーンというお祈りの言葉が埃の空気をつんざくように街に流れると、皆、知らぬ間にショールを頭にかぶっているではないか。さらに1人の新人は、(どうも仕事に飽きると)お祈りのマットを広げてうつぶせになって、お祈りに没頭するのが仕事場での習慣だ。
 サクラ・モヒラの給料は標準より高い。技術者であることを目的にしているので、簡単に辞めてもらいたくない。この場所から質の高い製品を出したいのだ。これは私が頼んだわけではないが、監督者は福利厚生として、皆に昼ごはんの足しに卵やクッキーを準備している。彼女たちの普段の食べ物は質素であることから、この食べ物の福利厚生が大きな楽しみであるらしい。
 サクラ・モヒラの工房の製品は、4月から出始めます。ローシルクのジャケット、ブラウス、スカートに加え、カディコットンの刺繍付シャツが届きます。

 
二人の奨学生 : (右から)アムジャドとモニールの家庭

 連休の村の訪問となり、モニールとアムジャドが村に帰って、それぞれの家庭に招待してくれることになった。両家族ともこれ以上できない、というくらいテーブルに果物やお菓子を並べて待っていてくれた。いつものようにアンワー・ホッサンの家で昼をごちそうになっていたので、皆、お腹がいっぱいだった。でも、日本のゲストの人たちは、彼らに礼を尽くしてくださり、おいしい、おいしい、と言って、さらにたくさん食べてくださった。ありがとうございます。初めて招待した日本人、形式的にお行儀よくふるまわれたら、両家族ともどんなに落胆しただろうか。衛生状態やお腹を心配することに最優先をおかず、相手の気持ちに配慮した言動で自然に言葉以外のコミュニケイションを作ってくださり、私もこのような日本とナラヤンプール村の交流の形を10年の力と受け取りたいと思った。
 初めはひっそりと静まり返っていた、居間兼寝室に台所から一対の目が出始めると、いっぱいの目や顔が出始めた。だれも多くはしゃべらなかったけれど、とてもよいコミュニケイションができている気持ちになった。少しずつ彼らに村の後輩たちのことを頼んでいこうと思うけれど、気持ちよくやってくれるだろうか。果たして、村のプロジェクトはどのように展開していくのだろうか。

 毎月発行のサクラ・モヒラ・ジャーナルがあります。ウェブでお読みいただけます。
プリントご希望の方はお知らせください。

 オフィスでは毎月オープンデイを設けています。土曜日の2時からです。時には英語の歌などの催しもあります。お出かけください。

発行:Sakura Mohila
〒330-0071 さいたま市浦和区上木崎T−9−20
        友光ビル2F (京浜東北線与野駅西口徒歩1分)
          Tel 048−832-4625  Fax 048-830-1709
          E-Mail : sakura_mohila@yahoo.co.jp
          HP : http://www.sakuramohila.com/
 
ページTOPへ
Copyright Sakura Mohila All Rights Reserved.